第4話閉ざされたバザール~欠乏所~  前編

世界規模の鯨産業の潮流に飲み込まれた日本。それは「欠乏所」という制限つきの交易の場を生み出した。日本にペリーという一人の男が乗り込んできた!!!

鯨産業が日本を開拓してゆく

日本近海の太平洋の上に、ぽつんと芥子粒のような白い点が浮いている。

捕鯨船「ピークォド号」は鯨「モービー・ディック」を見つけた。鯨と人との激闘が繰り広げられ、船体は傾き、叫び声も届かない荒れ狂う波を受けて、船長のエイハブは「モービー・ディック」に海底へと引きずり込まれてゆく。

船首を上にあげ沈む船を見つつ、主人公のイシュメルは木片に捕まり、この広大無辺在の大海の中、ひとり生き残った・・・。

1851年に発表された、ハーマン・メルビル(1819年~1891年)の「白鯨」(Moby-Dick; or The Whale)を読み終えて頭の中で回想すると、当時の捕鯨の厳しさと人と海のもつエネルギーを感ぜずにはいられない。

 ここにも、ひとり海の男がいます。

あの「熊おやじ」マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年~!858年)です。

丁度この「白鯨」が世に出たのが1851年、ペリーが東インド艦隊司令長官に任命されたのが1852年で、1853年には日本の浦賀に来ているのですが、はたしてペリーはメルビルのこの本を読んだのでしょうか?

もし彼が読んでいたら、また船員が読んでいたとしたら、個人的に一度感想を聞いてみたいものです・・・。

 

 

さて、ペリーは何をしに日本に来たのか?

それは、鎖国の国日本の門戸を開き、自分たちのアジアにおける政治的・経済的な支配を確立するためだったのですが、表向きの理由として、一例を挙げれば捕鯨産業で自国に有利になる交渉をすることも目標でありました。

ロシア人を含め欧米人にとって鯨から採れるものはとても重要なものばかりでした。

油としては、灯火用、暖房用、潤滑油、石鹸、塗料などがあり、ご存知鯨のヒゲは弦楽器の弓やコルセット、傘、釣竿、バネに加工され、鯨骨は肥料にされたりしました。

食用にもされましたが、アメリカ人は鯨の肉をすすんでは食べなかったようです。

このように捕鯨は当時の一大産業であったのです。 例えば、1846年のアメリカの捕鯨船総数は722隻で、総資産額は推定現在価値で93億500万ドルもありました。

1854年が水揚げ高金額の最高を記録し、鯨油と鯨骨の売り上げだけで、推定現在額に換算して51億1800万ドルを生み出していました。

 アメリカ合衆国で1846年、瀝青(原油・天然アスファルト)からケロシンオイルの分離に成功し灯火用油が発見され、19世紀後半から徐々に石油の利用が盛んになり、鯨油にかわるものとして受け止められ、次第に捕鯨が下火になってゆきます。

しかし、ペリーの時代はまだ鯨を追うことが価値を持っていた時代でした。

コメントする

岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。